世の中が腐っている
最近そう思うことが増えた人に朗報です。
私もまた世の中が腐っていると感じています。
奇遇ですね。
ただ、感覚的に「世の中が腐っている」と感じるだけで、何が原因なのかについて思いをめぐらしたり言語化するというのはそう容易いものではないのでなかなかそこから進展というものがないものです。
単なる思い過ごしかもしれません。周囲は考えすぎだという人がほとんどです。
世の中が腐っているというのは単なる思い込み。。。。。
ただ、ニーチェという哲学者が我々のような人にある刺激的な言葉をくれます。
個々の人々はこのような憂慮について何も知らぬかのように装っているが、我々の眼を欺くものではない。彼らの不安こそ、彼らがいかによくそれについて気づいているかを示すものである。
フリードリヒ・ニーチェ『若き人々への言葉』(2014)古典教養文庫
なんとなく「世の中が腐っている」というその憂慮は我々が想定している以上に鋭敏なものかもしえないとニーチェは述べるんですね。本当に腐ってるかもってことです。
今日は、なぜ世の中が腐っていると私は考えているのかを言語化してみました。
批判歓迎です。
■人はどういう時に間違いを犯すか
まず、「世の中が腐っている」という風に感じるためにはどういう前提があるのかを考えてみる必要があります。
うーん。
これはよくよく思いをめぐらしてみると、どうも自分にとっての「過去のある地点」よりなんとなく悪化しているという感覚を避けては通れなさそうです。
つまり、数年前に比べて「何かが失われている」や「何かが壊れた」という感覚が我々を「世の中が腐っている」という意識に導いているということなのです。
さて、何が失われたのか。
さて、何が壊れたのか。
これは目に見えるものではありませんね。
見えていればそれを治せばいいのですから。
では、目には見えないものということになるわけですけどここからどうしましょうか。
その目には見えないものの正体とはなんなのでしょうか。
これは私が思うに、非常に恣意的な言葉であることを承知の上で申しますと「常識」ではないかと思うのです。
「常識」が失われているから「世の中が腐っている」のではないかと。
では、「常識」とは何かですがこれは極めて説明に苦しむ言葉です。
ここで私はモンテスキューに助けを求めるわけですが、「自然法」についての考えが非常に私のいう「常識」に近いと感じたのでご紹介します。
個々の知的存在は、その作った法を持ちうるが、しかし、作らなかった法もまた持っている。・・・実定法の存在する以前に、正義の可能的な関係は存在した。実定法が命じまたは禁ずることの他には、正なることも不正なることもないというのは、円が描かれる前には、すべての半径はひとしくなかったというのに同じである。
『法の精神』シャルル・ド・モンテスキュー(2016)中公クラシックス p9
モンテスキューという人はよく誤解されるのですが、「実定法」の成り立ちを説明した人ではありません。
それ以上に「自然法」のような「我々が暗黙のうちに価値判断の根拠としているもの」を非常に重視したんです。
「実定法」もこれがあるから存在していると上の文で彼は述べているのでありまして、裏を返せばモンテスキュー先生は「常識が崩壊する(自然法が存在しない)ところはもはや人が住む場所ではない」と言ってるんです。
これですね。まさに。
世の中が腐っているのは共同体において暗黙のうちに了解されていたことが日々失われていっていることが原因なのだということです。
だから間違いを犯しているのに気づけなくなってきているのです。いやそもそも共同体なるもの自体が崩壊しているとも言えるかもしれません。
ちなみにここでいう「間違い」というのはテストで問題に間違えるなどというものではありません。人は間違えるものです。
むしろ「私は間違えない」という確信に満ちた非常識な人間が大手を振って歩いていることが世の中を腐らせているのです。では、このような傲慢な人間はなぜ製造されてしまったのかを見てみましょう。
■なぜ常識は失われたか
「常識」が失われ今までとは何か異なる人が製造されていく(世界が目の前にある)理由を見ていきましょう。
その方法論として私は「常識」の存在要件を検討することで見えてくると考えています。
ではその存在要件とは何でしょうか。
おそらく、「社会」という名の複数人が集う場所にのみ存在するということではないでしょうか。
自分一人だけが仮に世界に存在するとしたら「常識」は存在しえませんし、そもそも必要もありません。複数人の「自由」を最大化するべくために人類が発明したものこそ「常識」であるはずです。
ということはひっくり返せば「常識」がどうすれば失われるかは見えてきます。
個々人が孤立し、他者との間に壁ができるような世界において「常識」は喪失します。
さて、現代は昔に比べてそのような状況は生み出しやすい環境なのでしょうか。
それに関しては近代という時代を調べてみますとイエスという見解にたどり着きます。
キーワードは資本主義と民主主義です。
資本主義
まずは一つ目の資本主義が世の中の常識を衰退させる過程について見てみます。
近代というと「産業革命」などを通して世界は圧倒的に生産性を高めた時代です。
そして、それは人間が「労働」という活動力に価値をおいたことが起源にあるとアーレントは指摘します。
近代において労働が上位に立った理由は、まさに労働の「生産性」にあったからである。
『人間の条件』ハンナ・アーレント(1994)筑摩書房 p140
これについてはマルクスもロックもスミスも「労働」を近代の進歩の原動力とみなしておりまして、政治思想において「労働」という活動力に価値を置いたことが歴史的転換点だったことは多くの智者の中で共通の合意があるようです。
一方で、この近代進歩における最大の原動力「労働」には他の人間のあらゆる行為以上に「孤立」を強化する側面がありました。
この「孤立」を軽視するきらいが現代人にはあるそうですが、「労働」は孤立しないとできないほどに「孤立」を必要とします。
なぜなら「労働」は個々人の「分業」を原動力に、生産性を高めるからですね。
こういうわけで、社会の公的領域が別の活動力から「労働」に置き換えられるにつれ人々の人生は「孤立」で埋め尽くされるようになるというわけです。
ハンナ・アーレントは別著『全体主義の起源3』の中で20世紀という時代を表してそれ以前との明らかな変化を指摘します。
人間の行為を物品製造のモデルによって考えようとする試みは新しいものではないが、当然ながらここ百年ばかりの間ほどこれが強力で有力だったことはかつてなかった。
『全体主義の起源3』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房
資本主義の進捗が進むほど社会の分業は加速するとマルクスは指摘するわけですが、それゆえに人々が孤立を深める条件はより強化されるといっても良いかもしれません。
これについては、常にではないにせよ、働く我々にとって一定以上のリアリティをもたらしてくれるのではないでしょうか。
民主主義
近代以降のもう一つの発明に民主主義というものもあると言われています。
これもまた少なからず常識の崩壊に寄与したと言われています。
民主主義はその前の時代と比較することで見えてきますが、「個々人の平等」を非常に強く意識するイデオロギーです。階級のある社会で真に民主主義は成し遂げられないということですね。
この人々の間の「平等」の強化はもちろん良いことも多分にあったのですが、下記のような特徴があるとキルケゴールという近代勃興期の思想家は見抜いていました。
さらに、この世代は、みずから水平化することを欲し、解放されて革命を起こすことを欲し、権威をくつがえそうと欲して、それがために、社会的連合というスケシプスの掌中におちて、われとわが手で抽象物という手をほどこすべもないような山火事を引き起こしてしまったのであるが、そしてまた、この世代は、連合というスケプシスを通じて水平化を行って、具体的な個人個人とすべての具体的な有機的機構とを排除してしまって、その代わりに人類というものを、人間と人間とのあいだの数的な平等性を手に入れたわけであるが、それからまた、この世代は、いかなる卓越したものによっても、どれほどわずかでも卓越したものによっても制限されたり妨害されたりすることもなく、見渡す限りただ「空と海ばかり」であるような、あの抽象的な夢幻性の広大な眺望に、束の間の愉悦を覚えるのだが、そのときにこそ仕事は始まるのだ。個人個人が、めいめい別々におのれみずからを助けなければならないからである。
『現代の批判』セーレン・キルケゴール(1981)岩波文庫
なるほど我々は違いがなくなったことで良いこともあったかもしれません。
ただ、民主主義を徹底する流れの一環として個人と個人の違いを規定していた有機的機構を手当たり次第に破壊しはじめたと彼は述べています。
キルケゴールの場合は宗教(神)の失墜にそれを見たと私は考えていますが、民主的な制度の時代が進むにつれ人々は有機的機構を不要なものとして捨ててしまったことは否定できません。
有機的機構の破壊は我々の違いをなくし「民主的」な世の中へと導いてくれますが、有機的機構が担保していた人々をつなぎ孤立させないという力が衰退してしまったというまとめ方が私の言いたいことになるのかもしれません。
■沙漠に立つ我々
資本主義が生み出した「労働」の地位引き上げと民主主義の生み出した「平等」への徹底的なまでの愛着こそが世の中が腐っている原因を作ったのではないかということを今日は述べさせていただきました。
実は、私の考えでは資本主義と民主主義は既存の人々を紡いでいる有機要素を破壊していくという意味で非常に親和性の高いイデオロギーです。これらが結託することで、伝統や文化というものを「不合理」なものとして潰せるのです。
ただ、その有機的要素を破壊し、得た富の幻想から目をさます時、いつの間にか眼前には砂漠が広がっていることに気づくのかもしれません。
今、自分が砂漠の上にいると感じている人こそ世の中が腐っていると何となく気づいた証かもしれません。
ではこれは気づいているから偉いのか?もしくは人生が幸せなのか?というとそうも言えません。(なんか「俺みんな気づいてないこと気づいてるぜ」的な偉そうなこと言ってるように思われるかもしれませんが)
気づいてしまった場合、この苦しみを引き受けなくてはならないのです。
これに耐えられるでしょうか。
ちなみにここで引用してきたキルケゴールやニーチェは晩年頭がおかしくなっています笑
要するに耐えられなかったのです。
キルケゴールは「本当にやばい絶望とは絶望的だと気づいてないことだ」という趣旨のことを言いましたが、あれは本当なのか結構疑わしいものです。
結局キルケゴールが一番絶望してますからね笑
それはともかく世の中が腐っている、おかしくなってきているという感覚は資本主義と民主主義に内在する論理的演繹性にある可能性が高いのです。
もう着地点も見つかりませんが、とにかく我々は絶望的な時代にいるのです。
それに一人でも多くの人が気づき向き合うことで多少は世の中が「人間らしさ」を取り戻すのかなと個人的には考えています。
これにて本日は終了です。
最後に本日ご紹介した文献を載せておきます。