「仕事場に行くのがしんどい」
「仕事をするのがどうもしんどい」
「仕事とはしんどいものでしかないのか」
多くの人の人生の大部分を占めるはずの「仕事」ですが、今日においていかほどの人がその仕事を通して充足感や満足感を感じているでしょうか。もちろんそういった人がいることを否定しませんし、一定数いることを私は承知しています。
しかしながら、一方で、先に挙げたように仕事というものがしんどいものでしかなく、強いられないのであれば今すぐにでもやめたいと思っている人が相当数いることもまた事実ではないでしょうか。
そういう苦しみを多くの人に感じさせながらも、人生の大部分を費やさざるをえない仕事について継続的に考えることは極めて重要だと考えています。
そういうわけで、今日は、久々に人々の仕事について書かせていただきます。
テーマとしてはしんどい感情のルーツについてです。
■「しんどい」という感情の正体
まず「しんどい」という感情はいかなるものかについて考えてみます。
この正体はもちろん「肉体的」しんどさもあるのでしょう。
しかしながら、それは寝たり食べたりすればある程度回復するものです。
そう考えた時に根本的に我々を終生悩ませる「しんどい」という感情は「精神的」なものである可能性が高いのです。
つまりは、「精神的」な苦痛が仕事に対する「しんどい」という感情を固めているということですね。
さて、この「しんどい」とは何かにいよいよ移っていきます。
これは、「個人の自律性の喪失に連動して生じる感情」と私は見ています。
ここでいう、「自律性の喪失」とは「個人の思考を抑圧すること」を意図します。
*シモーヌ・ヴェーユ(ヴェイユ)という女性思想家がいます。
彼女は自らの労働体験を基にして作った思想書の一つ『自由と社会的抑圧』の中で我々の注目を惹くような興味深い指摘をしています。
*シモーヌ・ヴェーユ(ヴェイユ)・・・女性思想家。思想家としては珍しく自らで工場労働を経験するなど自体験に基づく思想が多くの人の心を動かした。
このようにあらゆる領域において、個人が占有すべき思考が、集団的生を結晶化させる広大無辺のメカニズムに従属させられる。それも、真の思考とは何かという感覚すら失いそうな勢いで。
『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェーユ(2005)岩波文庫 p123
ヴェーユ(ヴェイユ)は近代社会は「思考」を多くの個人から剥奪したことを指摘します。(詳細に補足しますと指示するものと指示されるものというカテゴライズを通して「指示されるもの」のことをヴェーユはここでイメージしています。)
そして、「思考」を剥奪された人々は広大な集団メカニズムに従属させられもはや思考をしない(できない)仕組みに組み込まれると述べます。
ちなみにヴェーユは「集団」となること自体を否定していません。
個人の「思考」が残る集団と個人の「思考」が消滅した集団がどれほど異なるかを風刺したいいテクストがあるのでご紹介いたします。
集団行動でもこれに類する差異が認められる。職工長の監視下で流れ作業に携わる労働者の一団は、哀れを誘う光景である。一方、一握りの熟練労働者がなんらかの困難に足止めをくらい、めいめいが熟慮し、さまざまな行動の有り様を呈示し、他の仲間に対する公的な権威の有無にかかわらず、誰かが好走した方法を一致団結して適用するさまは、みていても美しい。かかる瞬間にあって、自由な集団の表彰はほぼ純粋な形であらわれる。
『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェーユ(2005)岩波文庫 p108
個々人が「思考」し団結をする集団が取り組む仕事は美しいと述べる一方で、誰かの監視に四六時中さらされながら一つの仕事に従事する人間があまりに哀れをさそうと彼女は述べます。
これはどれほどまっとうな指摘でしょう。
人間は「思考」をしなければ哀れを誘うほど痛ましいものとなると聞いてどう思うでしょうか。
この正しさを証明することは容易ではないでしょう。
ただ、我々個々人が上のテクストをある一定の「納得感」を持って読んでしまうことを否定できる人はどれほどいるでしょうか。
世の中には職種や業界で「しんどい」仕事を分類しようという試みや労働時間で分類しようとする試みがありますが、それは私にはちょっと違うように感じます。
「思考」する個人の集まりか「指示するもの」に監視される中で活動する個人の集まりかが「しんどい」仕事の線引きをするのではないかと思うのです。
■「しんどい」仕事の誕生経緯
ちょっと話を戻すようになりますが、ここで「しんどい」仕事は何故誕生したかについて書いてみます。
これはあらかじめ結論から述べますと「機械」と「人間」の関係性の転倒にあります。
言い換えると「しんどい」仕事の誕生経緯は、「機械に対する人間の敗北にある」と言っても良いかもしれません。
ヴェーユのマルクス思想を解説する講義ノートにこのことを書いている部分があります。
「労働者はマニュファクチュアや家内工業では道具を使うが、工場では機械に使われることになる。前者では労働者が労働の道具の動きを決定するが、後者では逆に労働者が機械の動きに従わなければならない。マニュファクチュアでは労働者の四肢が生きたメカニズムを形成していたが、工場では労働者の手を離れた死んだメカニズムが存在し、労働者はそのメカニズムの中に生きた歯車として組み込まれているのにすぎない。」
『ヴェーユ哲学の講義』シモーヌ・ヴェーユ(1996)ちくま学芸文庫
産業革命以前においては仕事に使用する道具はあくまで「労働者が支配していた」のに対して、産業革命以降の大規模生産活動においては「労働者が支配されるようになった」とここでは述べています。
人間の生産性を強化する道具が道具の生産性を高めるための人間という移行が見られるようになったようです。これを果たしたことが社会的富の生産性を向上させた最大の理由だとヴェーユは考えています。
そしてこの機械と人間の関係の転倒が先の話につながりますが、「指示するもの」を除く多くの個人から「思考」を収奪し悲惨な社会が出来上がった最大のきっかけとなるものだと言って良いでしょう。
この流れは現代においても大いに当てはまることでしょう。
機械の力が強化され「思考」をしない個人の存在がより日常的なものとなり、「思考」することが人間らしさの証であったことさえ忘却の彼方へと追いやられてしまうという状況は。
■救いのなさを解明する意味
ヴェーユは労働自体を否定したわけではなく、個人の自律性を最低限のこす労働のあり方を求めました。
ただ、資本主義の発展と連動して起きる機械化のプロセスはこのヴェーユの考える「理想の形」が実現不可能なものであることを明らかにしてしまっています。
そう。救いがないのです。
仕事が「しんどい」とあなたが感じているとして俯瞰してみれば救いがないのです。
最近はどうすれば仕事が楽しくなるかみたいな本が溢れていますね。
あれに救いを求めたことが少し前の私でしたが無駄でした。
あれは本質的に「指示する側」の人物が書いていることが九分九厘で「思考」を奪われようとしているもしくは奪われた人にいかなる有益な情報にもなりません。
絶望的な状況にあることを直視せずにごまかすことはより我々を絶望的な状況に追いやります。
この「絶望」をおそらく誰よりも早く察知したと言われるセーレン・キルケゴールという哲学者は『死に至る病』で以下のように述べています。
むしろその逆に、自分は絶望していると、なんのよそおいもなく言う者の方が、絶望していると人からも見られず自分でそう思わないすべてのものよりも、すこしばかり、弁証法的に一歩だけ、治癒にちかづいているのである。けれども、・・・・大抵の人間が、自分が精神として規定されていることを十分に自覚することなしに生きているということこそ普通のことなのである。
『死に至る病』セーレン・キルケゴール(1996)ちくま学芸文庫
絶望的だと認めない人間ほど絶望的な人間はいないと彼は述べ、絶望していると自覚している人間の方が幾分か自己認識という点で数段前進していると彼は述べています。
これは「自分は鬱だ」と思っている人が鬱から遠く離れたところにいるのに近いものがあります。
そう考えると仕事が「しんどい」と徹底的にまずは思うことがある種「しんどい」あなたを多少なりとも救いうる第いぽではないでしょうか。
救いがないから考えても意味がないという流れに抵抗し続けることこれこそが仕事の「しんどい」あなたが今日からでもできることではないでしょうか。