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仕事について

仕事に必要とされるやりがいについての考察

更新日:

突然ですが「人生で最も長く時間を使うものは何か?」と聞かれた時あなたはなんと答えるでしょうか。

 

おそらくあなただけに限ったことでもないでしょうが、多くの人はあるワードを上げます。

 

それはもちろん「仕事」です。「仕事に人生の大半を費やします(ました)」という人がほとんどだと思います。

なぜなら言うまでもなく「生活をしていくためには」という差し迫った必要性があるからです。

 

裏を返せば、生活していくためにやらざるをえないという状況でなければやめるという人も少なくないと思います。

しかし、「生活をしていくため」だけであればあなたが今やっている仕事である必要性はそれほどありません。

毎日同じ仕事をせずにいろんな仕事をつまみ食いすればいいのです。

 

ただ、多くの人は意識的か無意識的かはともかくとして「定職」につこうとします。

 

では、我々を一定の職に向かわせるものは一体なんなのでしょうか。

これに対して一つ挙げられるのが今回テーマにしている「やりがい」です。

 

 

 

実際、「やりがい」があるからこの仕事は大変だけど頑張れるという人は少なくないのではないでしょうか。

 

 

少し整理をしますと多くの人が仕事をする動機だと考えている「飢えをしのぐ」はあくまで前提条件であり、「なぜその仕事をしているのか」に答えるものではないということです。

「なぜその仕事をしているのか」に対する答えで必要なのが「やりがい」です。

 

つまり「やりがい」は今自分がその仕事をしている大きな理由を占めるものであるということです。

さて、今日はこの「やりがい」について書いていこうと考えています。

 

結構仕事における「やりがい」について色々と考える人が多いみたいですからね。

「やりがい」を仕事に感じないという人が増えていることが背後にはあるのかもしれません。

 

 

*あらかじめ少しだけ断りを入れておきます。

今回、私はこの記事を通して「なぜ今多くの人が仕事においてやりがいを失いつつあるのか」を内的事象からではなく、外的事象から書くことにチャレンジしてみます。

ですので、「転職しろ!」とか「今の仕事に全力でやればやりがいなんて絶対見つかる」みたいなビジネス書的な仕立てを期待している方は読まないことを推奨いたします。

 

■仕事で言われる「やりがい」の意味

まずはそもそも論の話から行きましょうか。

「やりがい」という言葉の意味についてここでは書いていこうと思います。

 

前提を整えないと話が進みませんからね。

 

「やりがい」という言葉を辞書を調べてみました。

 

 

ある辞書にはこう書いています。

「そのことをするだけに伴う価値と、それに伴う気持ちの張りの事」と。

 

 

これはどう解釈するかは一義的ではないことを承知の上で私なりに解釈してみますと、「やりがい」とは「ある困難が予想される対象に相対してもそれに対して積極的に取り組もうと駆り立てる行動規範(倫理)」がしっくりくるかなと考えています。

 

なぜなら「不快」であるならば逃げればいいからであり、そして「苦痛」であろうとも自己を向かわせようするにはある種「規範意識」(義務のようなもの)があると考えなければ説明がつかないからです。

 

そういうわけで、「この仕事は『私が』やらなくてはならない」と思わせるものこそ「やりがいのある仕事」と私は考えているわけです。

 

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■仕事における「やりがい」は時代とともに溶けている

ですが、この「やりがい」をもたらす「仕事」に出会える労働者というのはそれほど多くはないように思います。

私がそう考えるのには幾つか理由があるのですが、今回はあえて一つに絞ります。

 

一般的にはここでミクロな解決策の提案に入りがちです。

具体的には、「やりがい」のない仕事についている人たちへ転職を勧めたり、「今の仕事に全力になってみろ」みたいな精神論がこれに該当します。あとはブルジョア側に行けという資本主義の初期みたいなことを言われるパターンですね。

 

 

しかしながら、私は「やりがい」が多くの人から奪われている理由を個人の内的事象に帰すだけでは不十分であると考えています。

何が言いたいかというと、現代の労働者分析はしばしば外的事象を軽視する傾向があり、着地点が「すべて自己責任論」という短絡的な結論ばかりが並び根本的な議論が始まらないということです。

 

アドラー心理学などが好きな人には今の話は伝わらないことが多いのですが、メンタルだけで世の中全ての問題が解決できるというのは変です。むしろ外的事象がかなり我々の思考や行動に影響を与えています。

 

それゆえに、メンタルによる現象の解釈に傾倒することはむしろ個人の実存を危うくすることすらあるとも言えます。

 

卑近な例を挙げましょう。

ある従業員がブラック企業体質の会社に馴染めないとして、カウンセラーが「どうやってそれに適応するか」を教えようとしたとします。

このカウンセラーのとった行動は最善の解決策だと思うでしょうか。

 

これにはいろんな見解があってしかるべきですが、私は少なくとも思いません。

個人の精神が受け付けていない時それが個人の責任(だけ)ではなく、外部要因も大いに関係があるからです。(この例でいうとおかしな会社が世の中にはあるという考えを持つこと)

 

ちなみになぜ多くの人は精神論的解決策に逃げるかというとそれは単純な理由で「自分が変わる方が環境を変えるより楽だから」です。

 

もちろん私も外的事象の問題を取り上げたところでそれが解決するのには膨大な労力がかかる、、、いやおそらく解決なんてしない可能性も高いと考えています。

 

ですが、だからといっていかれた世界に積極的に適応するために理解を止めることは最も危険です。(思考停止)

自分が置かれている状況を多面的に考え続け「理解しようとすること自体」が実は救いにつながっていることが往々にしてあるからです。

食べるために働き、働くために食べ・・・この二つのうちの一つを目的と見なしたり、あるいは、二つともを別々に切り離して目的としたりするならば、途方にくれるほかはない。サイクルにこそ、真実が含まれている。

 かごの中でくるくる回るりすと、天球の回転。極限の悲惨さと、極限の偉大さ。

 人間が円形のかごのなかでくるくる回るりすの姿をわが身と見るときこそ、自分を偽りさえしなければ、救いに近づいているのだ。

『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ(1995)ちくま学芸文庫

 

さて、話を本題に戻します。

我々の多くはどうして「やりがい」のある仕事に出会うことが難しくなっているのか。

 

これについて、私は次のような答えを考えています。

今日、多くの人が「やりがい」のある仕事に出会えない最大の要因は「近代化」(機械化)がより進んだことにあると。

 

 

 

つまり、「近代化」(機械化)が進んだことで、人間と機械の関係性がより広い範囲で転倒していき、より多くの人間が機械に飲み込まれていった(やりがいを失う状況に追い込まれた)ということです。

 

実は、今私が書いたことを200年以上も前にマルクスがズバリ述べています。

ともあれ、人間はその労働によって自然を征服し、工業の奇跡によって神々の奇跡を影の薄いものにしたのだが、そんな力のおかげで、生産活動を喜ぶことも生産物を享受することもできなくなるというのは、なんと理不尽なことだろう。

『経済学・哲学草稿』カール・マルクス(2010)光文社古典新訳文庫

豊かさを得たはいいがそれと引き換えにその富を生み出す活動が随分とつまらんものになったなあとマルクスは言ってるんです。

 

ここで、マルクスの話をするとおそらく上がってくる反応があると思います。

それは、マルクスの時代に比べれば今はかなり労働者にとって良い時代だと。

 

 

それは確かにそういう部分も多々あります。余暇は明らかに増えたでしょう。

ただ、そうでない部分もあります。

進歩史観に毒されると目が霞んできますが、むしろこれからは労働者にとって最悪の時代が来るとすら思えるのです。

 

 

ここで、悪化したとはどういうことかを見るためにある文献を少しだけみてみましょう。

あらかじめ「悪化した」とは何かということについて結論を述べますと「やりがい」だけでなく、「豊かさ」すら破壊され労働者の不遇はさらに加速するであろうというものです。

 

それでは中身をみましょう。

ジクムント・バウマンという20世紀の著名な学者がいるのですが、彼は非常に示唆的な言葉を残しているので紹介させてください。

「貧しい人間は豊かな人間と違う文化を持っているわけではない」とシーブルックは指摘した。「彼らは富裕な人々の利益のために作られたのと同じ世界に住まねばならない。そして、彼らの貧困は、景気後退やゼロ成長によって増大するのと同じように、経済成長によっても悪化する。」付け加えるなら、それは二重の意味で「経済成長によって悪化する」のである。

『新しい貧困』ジクムント・バウマン(2008)青土社 p81

彼の考えを要約するとこれまでも確かに貧しい境遇に追いやられ「やりがい」が乏しい状況に置かれた人が多かったのは間違いないが、近代初期に関して言えば、一応経済成長や景気拡大が多くの人に多少なりとも富を分配してきた(購買力は比例して増進してきた)ため、労働者を「消費」できる喜びに目を向けさせ黙らせることができていたようです。

 

しかしながら、ここからが重要なのですが、ここ数十年はそのパラダイムが明らかに変化していると彼は述べます

 

「近代化」なるものが労働者の「やりがい」をより徹底的に破壊するだけでなく、その彼らを黙らせるためになされてきた富の分配もしなくなってきているのです。(マルクス時代より最悪という話)

 

つまり、生産性の向上などによってもたらされる経済成長や景気拡大が「やりがい」を破壊するのはもちろんですが、労働者の豊かさという側面も破壊し始めているというのです。

 

 

経済成長すると多くの人が貧乏になるという現象は日本でもすでに小泉内閣の頃から起きています。

あなたも聞いたことがあるでしょう。
「実感なき景気回復」と言う言葉を。

 

 

 

「富」と引き換えに「やりがい」を交換した時代から「富」も「やりがい」も奪われる時代へと入っているといって誰が希望を持てるでしょうか。土台無理な話ですね。

 

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■「やりがい」を取り戻す方法

さて、そんな中で、「やりがい」を取り戻す方法を考えなくてはならないわけですがこの章立てにしておいてなんなんですが多分ないんです。

考えたんですけどない。

 

将棋で言うと「詰んでいる」状態と言ってもいいかもしれません。

 

じたばたと行動すればさらに状況が悪化するような袋小路に我々の多くはいるのです。

ただ、何もしなくても状況は悪化するのも間違いなさそうなのでもうこれは笑うしかないのかもしれません。

 

 

「やりがい」なるものが全ての労働者に与えられる時代はこないし、むしろやりがいを持って仕事をできる人の数は今後さらに減っていくでしょう。そして彼らを忍耐強くさせる唯一の鍵である「富」すら分配されなくなっていく。

 

 

ところで、今述べてきた話について、いわゆる知識労働に従事する人にはわからないことかもしれません。

 

しかしながら、それは極めてマイノリティな立場です。

そして、その知能労働すら機械によって持っていかれる日は近いのだから「俺関係ねえよ」とあぐらかいていられるのは今だけだということも言わせてください。

 

 

でもこんな絶望的な中でできることといえばなんなんでしょうね。

私としては、今起きていることを直視し、考え続けていくことから逃げないことしかないのかなと思います。

 

もしかしたら何か救われる道があるかもしれませんからね。

以上、仕事のやりがいから今後の我々の状況にまで話が飛び火しましたが、色々と書かせてもらいました。

参考になれば幸いです。

 

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