仕事がつまらない
仕事のやりがいってなに?
働いていて楽しいとかあるの?
世の中には仕事を通して人生を充実させる事ができる人というのは多少なりともいる一方で、全くもって仕事の楽しさがわからない人というのは少なくないようです。
確かに人には向き不向きというものがあるものですが、ここまで多くの人々が仕事がつまらないと感じる時代は未だかつてなかったのではないかと私は考えています。
今日は、なぜ仕事がつまらないと感じる人が多いのかについて少し異なった視点から書かせていただきます。
(「自分に合ってない」「面白くない」といったものは避けます。)
■目次
▶仕事がつまらない理由①ー分業が進みすぎている
▶仕事がつまらない理由②ー本質的に個人が孤立している
▶仕事がつまらない理由③ー「社会の発展」という欺瞞に取り込まれている
■仕事がつまらない理由①ー分業が進みすぎている
まず、我々の従事する仕事の多くが近代以前とは様変わりしていることに注目する必要があります。
キーワードは「分業」です。
もちろん近代以前も「分業」は存在しました。
しかしながら、近代の前後で「分業」というものの性質が全くもって異なるようになったのです。
ここではこれについて深めます。
分業の違いについて事細かに説明するというのはなかなか難しいのですがとりあえずわかりやすい例を挙げます。
今現在「〇〇を作っている」と自分の仕事について語る人がいたとしましょう。
では、その人が真の意味で〇〇を作っているでしょうか?
私が思うに極めて怪しいですね。
もう一つ例を挙げましょう。
最近の人に「お仕事は何をしていますか?」ときいたとします。
おそらくほとんどの人が「どこで働いているか」を答えるのではないでしょうか。
これらの例は何を意味するのかという我々の社会の分業がとてつもなく進んでいるということとともに、我々はもはや単独で何かをなし得るという喜びを仕事において発見することが極めて難しくなっているということです。
ハンナ・アレントは『人間の条件』において労働の特徴について以下のように述べています。
実際、背後に何も残さないということ、努力の結果が努力を費やしたのとほとんど同じくらい早く消費されるということ、これこそ、あらゆる労働の特徴である。
『人間の条件』ハンナ・アレント(1994)ちくま学芸文庫 P140
このようなことを言うと「お前は仕事をバカにしているのか」「頑張って働いている人に対して失礼だぞ」とか何とか言われるかもしれません。ただ、それは誤解です。近代の合理主義的側面が強まるほど仕事はつまらなくなるのではないかという問題提起です。
私の要旨としては、「物質的なリアリティ」を拡張するために「自らのリアリティ」の放棄を「分業」なるものは強いているのではないかということです。
■本質的に個人が孤立している
さて前の項目に関連してくるのですが、仕事をつまらないとさせているものについてもう少し掘り下げましょう。
もう少し分業について踏み込むと見えてくることがあります。
我々を退屈にさせるものの正体は仕事というものが我々に「孤立」を強いる側面にあるのではないかと私は考えています。
ハンナ・アレントは「労働」の持つ大きな特徴について、いかなる活動とも比べ物にならないほど「自らの肉体」とだけ共にあると指摘します。
むしろ、労働こそ、反政治的な生活様式である。なぜなら、この労働の活動力の場合、人間は、世界とも他人とも共生せず、ただ自分の肉体と共にあって、自分自身を生かし続けるためにむき出しの必要と向かい合っているからである。
『人間の条件』ハンナ・アレント(1994)ちくま学芸文庫 P340
これは逆に言えば、今の人々にとって仕事とは「他者との交わり」からは一切阻害され、ただただ自らの肉体の維持のみを目的として活動せざるをえない現象を指すものと言ってもいいかもしれないのです。
なぜこのようなことを強いられてしまうのでしょうか。
これはすでに指摘している「労働」自体が持つ側面にあります。
労働には多くの人が集まり「さも一人の大きな巨人であるかのように振る舞う」という側面があります。
実際、人々が集合して、「あたかも一人であるかのように共同労働する」労働集団を形成するのは、労働の本性からくるのである。そしてこの意味での共同性は、他のいかなる活動力にも増して労働に深く浸透するだろう。しかし、このような「労働の集団的性格」は、労働集団の各メンバーに、認識でき確証できるリアリティを与えるものではない。それどころか反対に、個別性やアイデンティティの意識をことごとく本当に棄て去るよう要求する。労働が生命過程の中で果たす機能ははっきりしている。
『人間の条件』ハンナ・アレント(1994)ちくま学芸文庫 P340
この「巨人」を生み出すために「分業」が出てくるわけですが、その分業過程に個人を組み込むにあたり「人格の放棄」を強いるということなのです。
このことは自らの体験に思いを巡らせてみれば否定できる人はそう多くないでしょう。
ちなみにアーレント批判にもありがちなのですが、「仕事において思考している人もいる」というものが挙げられます。
確かに仕事において自らの思考を介在させ楽しく仕事ができている人もいるでしょう。
しかしながら、どちらが多いかという見地に立てばアーレントのあまりにも悲観的と言われる見方の方が真理をついているのではないでしょうか。
ちなみにレーニンだかトロツキーだったか忘れましたが、そのようなごく一部の分業体制に組み込まれずマシーン化しない個人を「ブルジョア化したプロレタリア」として労働者から切り離していました。
■「社会の発展」という欺瞞に取り込まれている
さて最後です。
仕事がつまらないのはなぜなのかの集大成とも言えるかもしれません。
それは、近代の作り出した世界観ですね。
「なぜ分業を極度に推し進めるのか」「なぜ個人の人格放棄を迫るのか」に対する問いへの回答と言えるかもしれません。
もちろん近代の作り出した世界観についてつまびらかに答えていくとなると六法全書並みの説明が必要なのは承知しています。
しかし紙幅もありますので、簡素に書かせてもらいます。
これは「世の中を豊かにする」というものには違いないのですが、「豊か」の定義がどうもおかしいわけですね。
私の直感に頼るところの多い主張ではありますが、この「豊か」なるものが諸悪の根源かもしれません。
「豊か」にする対象が本質的に「個人」ではなくGDPだかなんだかで示される「社会」という得体の知れないものなのです。
最近「生産性」という言葉が流行っていますが、あれなんかはまさにこの「社会」なる冷たい概念の膨張を目指す意味でよく使われています。
近代も初期の頃は、触知できる生産物と確実な利潤に関心が持たれ、後期になると、円滑な機能と社会性が追い求められるようになった。
『人間の条件』ハンナ・アレント(1994)ちくま学芸文庫 P348
アレントがここで書いているように近代世界というものがその初期の段階ではまだ個人の認識の範囲を超えなかった世界だったのに対して、年を追うにつれて何かもはや説明することができない得体の知れないものへと変化していったと述べています。
要するに、我々は「豊かさ」とは何かに思考をめぐらすことすら許されないほどに社会の機能の一部に巻き込まれているのです。そしてその「豊かさ」は今ここで生きている我々の認識が届くところにはないのです。
そういったこともあり、仕事がつまらないものへとなり果てることは当然の帰結だと言えますね。
何か得体の知れないものへの奉仕を当然のものとする現代の多くの仕事が我々に多くの喜びをもたらしてくれる日などくるのでしょうか。
もしあればぜひ教えていただきたいものです。
私が思うに、それくらい絶望的な状況に我々現代人の多くは巻き込まれているということが今日は書きたかったことです。
前向きな話にならずにすいません。
以上です。