仕事について

仕事がつらいと語る人に共通するたった一つのこと

更新日:

仕事が辛い

 

久々の友人と旧交を温める時

久々の家族団欒を楽しんでいる時

 

そういった何気ない会話の中で誰かの口からふと飛び出してくることはありませんか。

あなた自身はどうでしょうか。

 

 

毎日仕事を楽しんでいるでしょうか?

それとも仕事はつらいものでしかないですか?

 

 

私が思うに「仕事が楽しいか辛いか」というのは人生の幸福度を決める死活問題とすら思えます。

なぜこの問いにこだわるかというと、「仕事は人生の大部分を費やすもの」だからに他なりません。

 

■目次

「仕事がつらい」となる瞬間について
人生における「思考」の重要性について
「思考」は何から生まれるか

■「仕事がつらい」となる瞬間について

いきなりですが質問です。

なぜ同じ「仕事」に対してある人はつらいと感じ、ある人は楽しいと感じると思いますか。

 

 

 

これは一見一筋縄ではいかない問いかもしれません。

ですが、私が考えるにこの問いはあることを教えてくれています。

 

 

それは、「ある仕事」が普遍的に(すべての人にとって)つらいということはありえないということです。

つまり、我々自身にある「何か」がベースとなって仕事へのモチベーションは規定されているということです。

 

 

 

そのキーワードとして私は「思考」というものをあげます。

「思考」をしているかどうかが「仕事」の面白さを決定する極めて重要な要因ではないかということです。

 

シモーヌ・ヴェイユという思想家が極めてこれをわかりやすい例で紹介してくれていますので少し引用いたします。

集団行動でもこれに類する差異が認められる。職工長の監視下で流れ作業に携わる労働者の一団は、哀れを誘う光景である。一方、一握りの熟練労働者がなんらかの困難に足止めをくらい、めいめいが熟慮し、さまざまな行動の有り様を呈示し、他の仲間に対する公的な権威の有無にかかわらず、誰かが好走した方法を一致団結して適用するさまは、みていても美しい。かかる瞬間にあって、自由な集団の表彰はほぼ純粋な形であらわれる。

『自由と社会的抑圧』シモーヌ・ヴェイユ(2005)岩波文庫

 

もちろんここでヴェイユが意図していることは幾つかあります。

 

その中の一つとしてここまで述べてきた「思考」の有無が苦楽を規定しているのではないかというものです。

彼女は「何を作っているか」にあまり注目していません。

 

「個人」に何よりもまず目を向けることでこの見解を出しています。

 

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■人生における「思考」の重要性について

今述べた「思考」の重要性は、何も仕事に限ったことではありません。

その他の活動においても言えることです。

 

要するに、「思考」の有無はある取り組みの「意味」を規定する最大のものとさえ言えるのではないかということです。

 

このことを我々に示したのではないかと思われる人がいます。

彼の名前はソクラテス(ソークラテース)です。

 

 

名前と経歴は割愛しますが、表面的に見ると「絶対に友達にはしたくない奴」です。

なぜなら、彼はしばしば次のような議論を吹っかけるからです。

 

ソクラテス

徳とは何かね?

インテリ

〇〇のことでしょう。

ソクラテス

ふむふむ。しかしこう考えると君の言っていることはおかしくないかね

インテリ

では〇〇でしょう。

ソクラテス

なるほどね。だけど、こう考えると君の言っていることはおかしくないか。

〜〜経つこと6時間〜〜

インテリ

では、徳とはなんなんだ。ソクラテスよ

ソクラテス

それが私にもわからないんだよ。

 

 

こんな感じのことを人生でずっとやっていたのがソクラテスという人物なのですが、本当に目の前にいたらうざいことこの上ないでしょう。

 

しかし、ソクラテスという人物をそのように短絡的に捉えることはよくないようです。

ハンナ・アーレントという思想家が非常に示唆に富んだ指摘をしているので紹介します。

彼個人に関して言えば、言えることはただ一つ、思考が人を賢くしたり回答を与えたりすることがないにしても、思考なしの生は無意味だということである。ソクラテスがやったことの意味は行為そのものにある。言い方を変えれば次のようになる。思考するということと十全に生きていることは同じであり、それ故思考は常に新たに始まらなければならないものである。思考は生に付きまとう活動であって、正義・幸福・徳といった概念に関わり、我々が生きている間に我々の身に生ずるあらゆることの意味を表現するものとしての言語によって与えられるのである、と。

『精神の生活(上)第一部ー思考』ハンナ・アーレント(2015)岩波オンデマンドブックス

 

この指摘を前後関係も踏まえて私なりにまとめます。

 

アーレントは、「思考」をし続けることは結果として何ももたらさないことは多分にあるし、むしろ答えから遠ざかることすらあると述べます。では「思考」は無駄なものなのかと考えた時にアーレントはその正反対の見解を出すわけです。

 

 

つまり、アーレントはソクラテスという人物から以下のようなメッセージを読み取っているのです。

 

「思考」は行為自体に大いに意味をもたらすことはないかもしれない。しかしながら、その「思考」なくしては人生に意味はない。

「思考」を通してのみ生き生きとした人生を歩むことができるのだ。

 

我々の人生に「意味」をもたらすのは「行為の結果」ではなく、その「行為自体」にあるのだとアーレントは繰り返し強調します。

 

 

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■「思考」は何から生まれるか

ここまでで私は、「ある行為の充実度はそこに「思考」が宿るかどうかで決まる」と述べてきました。

では、最後にその「思考」はどのようにして生まれるかについて触れて終わりといたします。

 

結論から申し上げますと、「思考」は「対話」の中から生まれてくると私は考えています。

これは意外に思われるかもしれません。

 

というのも一般的に、「思考している人」を絵で書いてもらえれば、おそらく多くの人が一人で考え込んでいる人物像を描こうとするからです。

 

しかしながら、冒頭のシモーヌ・ヴェイユの引用部分然り、ソクラテスの対話然りですが、不思議なことに「思考」の重要性を伝える描写に常に「集団」や「他者」が写り込んでいるのです。これは単なる偶然にしては出来すぎているように感じます。

 

それ故に、ここは非常に注目すべきポイントです。

これらの人物は、真に我々を充実せしめる「思考」を「他者との対話」から生成できると考えているのです。

 

もちろんアーレントもヴェイユも「もう一人の<自分>との対話」というものも「他者」とみなしています。

それ故にいつも誰かとつるんでいろと言っているわけではありません。

 

しかしながら、そのもう一人の<自分>自体は「他者との対話」を通じて生成されてくるものと考える彼女たちにとっては人生の充実度をもたらす「思考」の純粋な媒介として「他者との対話」というのを差し置くことはできないのです。

これは『資本論』でおなじみのカール・マルクスも指摘しているようです。

マルクスがヘーゲルの歴史哲学・・・から引き出した結論によれば、あらゆる伝統的解釈とは逆に、活動praxisは、思考(thought)の反意語などでは全くなくて、リアルな真の思考の媒体だったのであり、政治は、哲学的威厳など微塵も帯びていないというのでは決してなくて、本質的に哲学的唯一の活動力だったのである。

『政治の約束』ハンナ・アーレント(2008) 筑摩書房

以上色々と述べてきましたが、仕事がつらいと感じる人に申し上げたいことは一言です。

 

もしあなたの取り組んでいる「行為」が自らの「思考」を用いないのならばそれは苦痛でしかないでしょう。

ですから、その場合は周囲にいる誰かに対話を持ちかけてはいかがでしょう。

 

そこから「思考」をしてみましょう。

その対話から「転職しろ」といったそういった短絡的答えが出る必要はありません。(もちろん出てもいいのですが)

 

 

その過程にこそ「意味」があるのです。

その対話がまずはあなたを救うでしょう。

 

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