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仕事について

「仕事を通じて成長したいんです」という言葉はなぜ気持ち悪いのか

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「成長できる企業ってどこですか?」

「成長できる会社に入りたいです。」

「仕事を通じて成長し続けたいです。」

 

あなたの前に就職活動生がいたとしましょう。

そしてあなたにこういうのです。

 

「成長できる会社に行きたい」と。

 

 

その時あなたはどう思いいますか?

「おっ。頑張り屋さんだな」「そうかそれはいいことだ」という感じでしょうか。

いい先輩ですね。

 

さて、私はというと人間のクズなので「成長したい」という言葉を聞くと耳が痛くなりますし、気分が悪くなる人間です。

こういうのを「良き人間」と定義するのであれば、私は完全にクズでしょう。

 

ただ、私は天邪鬼でもなんでもなく心の底から「成長したくない」と公言している人間です。

ですので、一部の人から「向上心のない人間」「人間のクズ」と言われることは覚悟しています。

 

 

ただ、私はそれでもなお「成長」というものへの抵抗感が拭ません。

今日は、私が最近仕事をする中でよく聞く「成長」という言葉を叫ぶ人への違和感について色々と書いてみました。

*本日の記載内容はおおよそすべての人を敵に回すことを覚悟して書きます。

■目次

 ▶「成長」の正体
 ▶「成長」する危険性
 ▶「成長」と軽々しく言うのは思考停止

■「成長」の正体

そもそも「成長」という言葉が私を戦慄させ、恐怖すら感じさせるのはある疑問がわくからです。

その最大の疑問は「成長」「成長」って言ってるけどそれ一体なんなのというものです。

 

 

もちろん「成長とは〇〇なものだ」と答えられる人もいるでしょう。

ただ、それはごくごく少数で「成長」の正体がわからずに「成長したい」と言っている人が少なくないんです。

 

ところで、私は意地悪なものでして放っておけば良いものを、「成長したい」という人間を捕まえては「なぜ成長したいのか」と聞いて回っています。

 

すると興味深い反応が得られるのですが、驚くほどに多くの人がその理由に窮するのです。

私を疑うのであればぜひあなたの周囲にいる人々に問いかけてみてください。

 

多くの人が「成長したい」と言っているのにどうして成長したいと思っているかが全くもって答えられないことでしょう。自分が思っているのになんでそれを言っているのか全くわからないという摩訶不思議なことが起きるのです。

 

この摩訶不思議の正体ですが、私なりに憶測で説明してみます。

成長したい理由を返答できない原因は「成長」したいという「目的」を立てた前提自体に「成長したい」という*トートロジー(循環論法)が組み込まれていることに返答する段階で気づいてしまったからではないでしょうか。

 

 

では彼らがこのような袋小路に追い込まれているのはなぜかを見ていきましょう。

ここからは、私なりにこの「成長」なるものの正体を説明してみます。

これは一言で言えば「運動」なのです。

 

この「運動」というのはなかなか強烈なものでして、ハンナ・アーレントという思想家が以下のように述べています。

だが運動はこれを最初から、個人の良心のあらゆる異議申し立てよりも上位に置いていた。このことはまだ「市民的」道徳に対する計画的反逆としてなされたのではない。人格の固有のリアリティは、<普遍的なるもの><絶対的なるもの>のより高くより強大なリアリティを背景として立ち現れる時、たちまち取るに足らないものと思われ、集合的なるものと同一視された<一般的なるもの>のダイナミックな運動の潮流に押し流されてしまう。この流れの中では手段と目的の区別は重要性を失う。なぜならそれが意味を持つのは、手段と目的がそれぞれに確固とした明白な切り離し得る具体性を具えている時だけだからである。そしてそれとともに、目的を定め手段を選ぶ個人の人格は意味を持たなくなる。

『全体主義の起源2ー帝国主義ー』ハンナ・アーレント(2017) みすず書房

運動とは、一つの行動原理であると彼女は述べます。

ただ、ここでおさえるべきはそれではありません。私が太字にした部分です。

 

彼女によれば運動に組み込まれる個人というのは自らの内心の心持ちをいとも簡単に捨ててしまうとのこと。(むしろそれを捨てることこそが運動に傾倒する上で避けられないと言っても良いかもしれない。)

そして、そうすることで得体の知れない抽象的な世界観に押し流されそのまま自らの「意志」を失うことが達成されるというのが彼女の論点です。

 

 

まとめます。

 

「社会人として成長したい」

「仕事を通じて成長したい」

 

何気なく感じるこの言葉の薄気味悪さの正体とはそれを叫ぶ人間の精神的リアリティが死滅しているという状況に身震いしてしまっているからかもしれません。(運動に取り込まれてもはや個別的なリアリティを感じられなくなっている)

 

*トートロジーとはAの説明にAを使ってしまうこと。

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■「成長」する危険性

そういうわけで「成長したい」というのは喜ばしいものであるどころか空虚な概念に取り憑かれる危険なものですらあると私は感じるわけです。「運動」へ自らを投影することで、自らの「思考」と「意志」を放棄(破壊)する可能性があるわけですから。

 

 

ところで、もしかすると「仕事を通じて成長したい」と言い続けていればそのうち自らのしたいことや取り組みたいことが見つかるはずだと思われている方もいるかもしれません。

 

 

確かにそれで何か見つかるのであれば微笑ましいことです。その可能性を私は否定しません。

 

しかし、「成長」が目的であり手段でもあるという運動に自らが組み込まれた場合、そこから抜け出すことは容易ではありません。この運動は極めて強力な力を持っていますし、何より人々に安心感を与える力があるためわざわざ離れる必要性を感じさせないところに闇の深さがあります。

明確な行動原理を与えてくれますからね。

イデオロギーが正当化する潮流の大きさと力に比べれば、政治的なものであれ道徳的なものであれ一切の基準は無意味となる。重要なのは絶えず運動を持続する運動自体のみである。

『全体主義の起源2ー帝国主義ー』ハンナ・アーレント(2017) みすず書房

 

しかしながら、「成長」をし続けていればいずれ何かが見えてくるはずだという当初の目論見とは裏腹に「成長」という安心感をもたらす運動はむしろ方向転換をする上ではあまりに大きな障害となります。

 

なぜなら、「成長」という概念を自らの内に維持するためには永遠に走り続けなければなりませんからね。その「安心感」を棄て去り苦しむことができなければ「成長」という幻想からは抜けられないことでしょう。

 

 

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■「成長」と軽々しく言うのは思考停止

さて、畢竟するに「成長」というのは何なのかと言いますと「思考停止」であるというのが私の見解です。

これこそが「仕事で成長したいです」という人の多くに感じる気持ち悪さではないかと。

 

あなたの周りに「成長したい」と日常的に言ってる人がいたらとっ捕まえて下記の質問を投げかけてください。

  • 成長とは何ですか?
  • なぜ成長したいのですか?
  • 成長して何かあるのですか?
  • 成長した後はどうするんですか?

 

相手の晴れやかな笑顔が苦悶の表情へと変わることを想像することはそう難しくありません。

 

ちなみに私は「いや。よく考えたら成長したいとか嘘だわ」とか「成長って実は中身が空っぽだな」とかそういった人を同僚に大量に排出したことがあります。(これは良いことかどうかはわからん)

 

 

ちなみに「成長したい」と口癖になる人についてより詳細な分析を少しだけ最後に書かせてください。

私なりの解釈で恐縮ですが、「成長」という「運動」に組み込まれている人はほぼ例外なく近代特有の病に侵されています。

 

 

トマス・ホッブズという有名な哲学者がいるのですが、彼は人間と動物を隔てるものとして「目的を立てられること」というものをあげました。アリストテレス以降ホッブズまでの哲学者の場合は、人間と動物を分けるものは「原因を分析できること」と考えていたわけですから180度ひっくり返したのです。

たとえば、ホッブズが伝統哲学と訣別した一つの理由は、これまでの形而上学はすべて、万物の第一原因を究明することが哲学の主な務めであるとする点でアリストテレスに追随してきたのに対し、目的や目標を指示し、合理的な行為の目的論を打ち立てることに哲学の務めはあると主張した点にある。ホッブズにとってはこの点こそ重要であった。そして、原因を発見する能力なら動物でも具えており、それゆえこの能力を持つか否かは、人間の生命と動物の生命を区別する真の指標にはならないとまで主張した。

『過去と未来の間』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房

確かにこの「目的を立てられること」は産業革命含め多大な自然科学の発展に寄与したとアーレントはここで述べています。

 

一方で、彼女はこの続きにおいて極めて重要な示唆を与えています。

 

 

それは「目的を立てること」が人間の優位性と考えた結果、目的を立てない活動には「意味」が宿らないとすら考えるようになったのです。

近代世界においてますます深まりつつある無意味性を、おそらく何よりもはっきりと予示するのは意味と目的とのこうした同一視であろう。

『過去と未来の間』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房

この話を成長の話に置き換えましょう。

我々は「成長したい」という時「成長」を目的にしているはずです。(「〜したい」は目的でなければおかしい。)

 

そうした瞬間どうなるかというとアーレントの趣旨に沿って考えればそ「成長」という概念にたどる着くまでのあらゆる行為は意味を失うのです。

 

しかも既に指摘した通り「成長」の場合「運動」ですから着地点がありません。

それゆえに永遠にペダルを漕ぎ続けるものの何にもたどり着かない幻想の中を泳がされることになるのです。

 

「成長」が口癖の人に伝えたいのは「目的」と「手段」というカテゴリーからの脱出が必要だということです。

 

このカテゴリーから抜け出せば、「成長したい」という発想は湧いてこないし、「成長」が別のものであることが見えてくるはずです。

「成長」とは振り返った時に見えるものだということです。

意味は行為の目的ではありえない。意味は、行為そのものが終わった後に人間の行いから必ず生まれてくるものである。

『過去と未来の間』ハンナ・アーレント(1994)みすず書房

 

以上、仕事をするにあたって出くわす「成長」という世界観への試論を書かせていただきました。

「成長したい」と思わなければならないと思わされている人の一助となれば幸いです。

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