今は「自分のしたいこと」を見つけることに多くの人が明け暮れる時代になりました。
会社の上司や友人などから「自分のしたいことある?」という質問をするのがある種異常とも思われない時代でもあり、今後その傾向はどんどん強くなっていくだろうと思います。
本日はそういった「自分のしたいこと」が見つからない・見つけ方がわからない方向けに記事を書きました。
「自分のしたいこと」を見つけるのが難しい理由
まず「自分のしたいこと」を見つけるのが難しい理由を記していきます。
理由を端的に言えば、社会的に強く統制されており、行動を制御されているからです。
つまり、「自分のしたいこと」を考えようにも、我々がスタート地点からしてあまりに多くのものに縛られていることに気づかざるを得ないということです。
仮に、あなたが「自分のしたいこと」を何にも縛られずに自在にできるという考えを持っている場合、極めて「個人」という概念を過大に評価しています。
我々がどれほど制約された中を生きているかについてロルドンの『私たちの”感情”と”欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか?』では興味深い例が挙げられています。
著書の中では、ざっくりと人間の願望や感情は支配の側の人たちによって次のような流れで制御されてきたと述べられています。
- 貧困や飢えというものに抗う対象を欲する価値観の押し付け
- 消費行動を「喜び」とする価値観の押し付け
- 労働の中で労働そのものよる『使命感達成』や『自己実現』という内在的喜びを感じるべきだという価値観の押し付け
この例が示唆するのは、一口に「資本主義」といってもその時々の多くの人が特定の価値観を押し付けられていきてきたということです。
この例を見て私が唸ったのはまさに我々の多くが今「労働における自己実現」だの「仕事におけるやりたいこと」だのを用意する必要性に迫られている状況を的確に指摘している点です。
その時々の支配的な層は我々をどのようにすれば飼い慣らせるかを熟知しているのかまではわかりませんが、一つ言えるのは我々は想像以上に紋切り型の考えをするように社会の側から圧力をかけられているということです。
「自分のしたいこと」がわからない方が正常な理由
そういう意味では、「自分のしたいこと」がわからないで悩む人というのはある種自然なのかもしれません。
おそらく実のところ「自分のしたいこと」がないということはないと思います。
例えば、「毎日好きなだけ寝たい」とか「毎日ハンバーガーが食べたい」とか「何人も彼女を作って遊び呆けたい」とか、、そういうある種ゲスいものでもなんでもいいので挙げろと言われれば一つくらいは上がるでしょう。
しかし、「自分のしたいこと」がわからないという人はおそらくこれらが「答え」として求められているものではないと気づいているのでしょう。「自分がしたいこと」というものに対する答えは「労働における自己実現」という文脈に沿うものでなければならないのだと。
そういう苦しむ状況にある方にお伝えしたいのは、「労働における自己実現」というものは偽造されたものであるということです。
「自分のしたいこと」を見つける方法はあるのか
では、本当に「自分のしたいこと」を見つける方法は見つかるのか?
これは非常に難しい質問です。
なぜなら、すでに触れたように我々の感情は社会の諸々の構造による働きかけが形成しているからです。
しかしながら、先に引用した著書の中で、ロルドンはいいことを一つ言っています。
それは「人間の感情は社会構造によって作られる」けれども、「その社会構造を作り変えることができるのもまた感情の力だ」というのです。
誤解していただきたくないのは、これをもって人間の感情が先か社会が先にあるのかについての結論を出したいのではありません。
ロルドンは「感情」を大切にせよと言いたいのです。
ただし、「感情」もすでにある程度作られている可能性がある中でどの感情を信じればいいのか。
それに対する彼の答えは「怒り」です。
彼が「怒り」をある種最も「能動的」な感情としたからこそ、彼は政治デモなどの社会運動へ自ら参加しています。
「怒り」にこそある種限りなく、人間が「受動的」な状態から最も逃れることができた姿があるのだと考えているようですね。
「怒り」さえもが社会により作られているということになればもうどうしようもないわけですが、今世界中で起きているグローバリズムに対する支配者層への抗議運動が起きています。オキュパイザウォール・ストリートはすごく話題にもなりました。
彼ら・彼女らの怒りの運動を見て「冷笑」する人もいるかもしれません。
しかしながら、その「冷笑」している自分こそが偽造された感情により飼いならされている可能性があるのだと考える必要があります。